霊柩車の起源

野辺送り

今日、人がなくなると、一連の葬送儀礼を行い、ご遺体は火葬場で荼毘にふされ、収骨されたご遺骨は、やがて墓地に埋葬されます。
まだ、今日のように火葬が普及していない頃、亡き人は、喪家から出棺され三昧(さんまい)と呼ばれる葬所や墓所まで送られ、そのご遺体は土中に埋葬されていました。
この際、親族や近隣の人たちが種々の葬具をもって棺の前後に列を組みます。
この葬列を「野辺送り」と呼びます。

ここに葬具の一例と葬列の順序を記載します。
先灯篭、四幡(2本)、供花、杖、香、四華、膳、僧侶、位牌、棺、天蓋、四幡(2本)、後灯篭、親族、一般会葬者の順です。
愛知県知多地域では昭和初期まで行われていたそうです。

明治時代には、野辺送りの葬列の豪華さが競われることもあったようです。例えば、葬列に加わる「看護婦(看護士)」の姿がそれで、病人のために多くの看護婦を雇えることが富の象徴であったと考えられます。
また、華美に流れた葬列に対応するため、当時の葬具屋(葬儀業者)さんには、葬列の道具貸しの面と葬列に参加する人夫手配を請け負う両面があったようです。

近年では、交通事情や葬送儀礼の変容に伴って、上記の様に葬列を組んで送る「野辺送り」が省略されつつあります。葬列に使われた幡や天蓋などの葬具はほとんど見られなくなり、その名残りとして祭壇に四華(シカバナ)や灯篭が飾られるのを見かけます。また、棺をのせた輿は現在の宮型霊柩車に受け継がれています。

霊柩車の出現

「野辺送り」から「告別式」へ

大正から昭和時代にかけて交通機関の近代化が進み、都市の人口は郊外へ流出、これに伴って火葬場も郊外の人家の少ないところへ建設されるようになりました。野辺送りも移動距離が長く大変な労苦となり、徒歩で赴く葬列の時代は終焉をむかえました。
葬送の簡素化が進み、野辺送りの葬列に代わるものが霊柩車でした。

大正初期の大阪では、「駕友」社が「我国最初の葬儀専用霊柩自動車」と位置付けた「ビム号」が登場し、かつての野辺送りを主体とする葬送の様子を変えて行きます。

因みにこの頃の大阪では、流行性感冒(スペイン風邪か?)が蔓延し、死者も数多く出て、「駕友」社の霊柩車はフル稼働することとなり、霊柩車の認知度も上がったといわれています。

霊柩車の出現により、これまで野辺送りに費やしていた時間が必要無くなり、代わりに亡き人との別れを惜しむ告別式に多くの時間を費やすことが可能になりました。
こうして、葬儀式に引き続き一般弔問者の告別拝礼の式を執り行う、現在の葬儀の形式が整うことになりました。
まさに霊柩車の出現により葬儀の形態が著しく変容した事例であると考えられます。

昭和後期の宮型霊柩車

お葬式では、地域ごとの葬送習俗を踏襲しながら、宗教者による 葬送の儀式と、社会的な儀礼である告別式が執り行われます。
これにより、宗教情操を豊かにし惜別の情を癒します。
宗教(聖性)と民俗(俗性)が深いかかわりをもって成り立ってきた大切な儀式なのです。
これからも葬送の儀礼を微力ながらお手伝いさせて頂き、霊柩事業者としての使命を全うすることができます様に、喪家、葬祭業者の皆様のご依頼に誠意をもって対応致します。

弊社では昨今の変容する葬送儀礼にあって、ご用命の少なくなった宮型霊柩自動車につきましても、十分に稼働できます様に車両を保有しております。

参考文献
「霊柩車の誕生(井上章一著)」
「葬送儀礼と民俗(曹洞宗総合研究センター著)」